#280 織田信長は強い機能組織を作った偉人である②

織田信長の機能組織化〜

 

①銭で雇う兵(雇用隊)を作り、のちの豊臣秀吉滝川一益などの流れ者に指揮させた

 

これまでの武士共同体の構成員ではない者を機能本位で導入し、戦事業の専業軍人集団を創る形での「兵農分離」を始めた。

 

 

②武士共同体の基盤となっていた「土地=村落」との繋がりを断ち切った

 

重臣たちに信長の本拠地の城下住まいを強制して、自らも本拠地(居城)を次々と移したのである。

 

戦国大名で居城を移した者は少ないが、信長だけは那古野から清洲→小牧→岐阜→安土と、生涯に4度も居城を移している。

 

土地に密着した共同体を捨てて、利便性(機能)から居城を選んだのである。

 

 

③武士共同体のサブ・システムである商人の座を否定して、「楽市楽座」を始めた

 

商人の座は、その免許量を有力寺社や公家に支払うことで、室町体制の支えとなっていたが、信長はそれを認めなかった。

 

信長は、「天下布武」という目標達成のためには、関所や座の廃止が不可欠なことはよく知っていたのである。

 

着手容易性を捨てて目的達成性に邁進したのである。

 

 

④それまでの武士共同体の原理に反して、客観的成果による能力評価人事を行った

 

信長は、晩年に至るまでは、前科のある者でも、能力と実績によっては恐れることなく取り立てた。

 

客観的能力主義に徹する信長は、暗殺計画者をも、機能発揮のために活用した。

 

 

⑤機能発揮の上で最適の物的環境を整えた

 

特に有名なのが鉄砲の大量購入であるが、あらゆる場面で行われている。

 

例)

 

・琵琶湖に軍船を浮かべて美濃と京の間の情報伝達と軍隊移動を迅速にした

 

・鉄貼りの安宅船に大砲を積んで毛利水軍を撃破した

 

・政治的効果を考えた上での、安土に豪華な天守を持つ居城を築いたこと

 

 

信長は、この城で防衛線を行う気など全くなく、余計な防衛施設を一切作らず、大手門に向かって大道を一直線に付けた。

 

重要なことは、こうした新技術新機材の導入も、徹底した組織改革があったからこそ可能だったことである。

 

信長の時代に、鉄砲が有力な兵器であることは、どの大名も知っていた。

 

これを大量使用して成果をあげたのは、雑賀衆の方が先だった。

 

それにも関わらず、なぜ信長以外の大名が鉄砲を大量かつ組織的に利用できなかったのか?

 

それは、武士共同体という組織原理から抜け出せなかったからである!!

 

鉄砲を大量かつ組織的に使用するためには、先祖伝来の部門を誇る「馬士の名士」を後方に避け、鉄砲足軽を集めた大組織を作らなければいけない。

 

各村落を支配する豪族が、その村の衆を率いて戦場にくる武士共同体では、そんなことはできないのである。

 

信長は、「銭で雇う兵」を大量に組織し、滝川一益木下藤吉郎らに指揮させる新組織を作り上げていたので、これが可能であった。

 

しかし

 

そのために信長は、重臣たちに離反され、なんども暗殺と敗戦の危機に曝されたのである。

 

信長の時代に武士共同体を解体して機能組織を作ることは、今日の従業員解雇どころか、命懸けであった。

 

だからこそ、常に最適の物的環境を作れたのである。