#074 戦術の失敗は戦闘で補うことはできず、戦略の失敗は戦術で補うことはできない

日本軍の戦略オプションは米軍に比べて相対的に狭くなる傾向にあった。

 

緒戦の決戦で一気に勝利を収める奇襲戦法は、日本軍の好む戦闘パターンであった。

 

戦略概念は極めて狭義であり、むしろ先制と集中攻撃を具体化した小手先戦術に優れていたのである。

 

猛訓練による兵員の練度の極限までの追求は、必勝の信念という精神主義とあいまって、軍事技術の軽視に繋がった。

 

本来、重要なのは、合致した最適の戦略オプションの中から選択すること

 

 

日本的集団主義で重視されるのは、組織目標と目標達成手段の合理的、体系的な形成・選択よりも、組織メンバー間の「間柄」に対する配慮であった。

 

この集団主義的原理は、作戦展開、終結の意思決定を決定的に遅らせることによって重大な失敗をもたらすことがあった。

 

これに対して、米軍は

 

作戦速度の速さは決定的であり、日本軍の苦心の蓄積が最後の仕上げで一挙に粉砕されることが多かった。

 

米海軍の作戦部長キング元帥は、作戦部員の人数を極力少なくすることに務めた。

 

これは、組織を活性化するには、各自に精一杯仕事をさせることが重要であり、有能な少数の者にできるだけ多くの仕事を与えるのが良いと考えた結果である。

 

 

しかし、人間は疲れるため、いつまでも同じ仕事を与えるのはまずかった。

 

そのため

 

特定の担当者のほかは、作戦部員を前線の要因と年毎に次々と交代させたのである。

 

これによって、優秀な部員を選抜するとともに、絶えず前線の緊張感が導入され、作戦策定に特定の個人のシミがつくこともなかったと言われている。

 

この米海軍のダイナミックな人事システムは、将官の任命制度にも生かされていた。

 

米海軍では、一般に少将までしか昇進させずに、それ以後は作戦展開の必要に応じて中将、大将に任命し、その任務を終了するとまた元に戻すことによって極めて柔軟な人事配置が可能であった。

 

f:id:minshu-no-kouryaku:20190912171703j:image