#270 君主論について

君主論

 

国の保持にあたっては、特に2つの点を気につけなくてはいけない。一つは、領主の昔からの血統を消してしまうこと、もう一つは住民たちの法律や税制に手をつけないことである。

 

民衆というのは、頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならない。というのは、人は些細な侮辱には報復しようとするが、大いなる侮辱に対しては報復しえないのである。したがって、人に危害を加える時には、復讐の恐れがないように、やらなければならない。

 

運命の風向きと、事態の変化の命じるがままに、変幻自在の心構えを持つ必要がある。そして、前述の通り、なるべくなら良いことから離れずに必要に迫られれば、悪に踏み込んでいくことを心得ておかなければならない。

 

もとより時を待てば、何もかもがやってくる。良いことも悪いことも、いずれ構わず運んできてしまう。

 

物事の定めとして、一つの苦難を避ければ、あとはもう何の苦難にも会わずに済むだとと、とてもそうはいかない。思慮の深さとは、色々の難題の性質を察知すること、しかも一番害の少ないものを、上策として運ぶことを指す。

 

新しい制度を率先して持ち込むことほど、この世で難しい企てではないのだ。というのは、これを持ち込む君主は、旧制度でよろしくやってきた全ての人々を敵に回すからである。

 

民衆の支持によって君主とある者は、常に民衆を味方につけておかなければならない。最も、民衆は抑圧されないことだけを求めているから。これはそんなに難しいことではない。

 

賢明な君主は、いつ、どのような時勢になっても、その政権と君主とが、市民にどうしても必要なものと感じさせる方策を考えなければならない。そうすれば、君主に対して、いつまでも忠誠を尽くすだろう。

 

君主自身の、豊かな人間味と度量の広さを進んで見せるべきである。しかもなお、君主の威光をしっかりと守っていくこと。この最後の物は、どんな場合でも、決してゆるがせにしてはならない。

 

君主が衆望を集めるには、何よりも大事業(戦争)を行い、自らが、類い稀な手本を示すことである。

 

領民が非武装なのを見た君主は、決まって彼らを武装させた。それは領民を武装させれば、その兵力がそのままあなた自身のものになるからである。その上、あなたに下心を持っていた者が忠実になり、もともと忠誠を誓った人々をもそのままの形で、引き付けておける。こうして単なる領民が、あなたの支持者に変わる。

 

また君主は、どこまでも味方であるとか、とことん敵であるとか、言い換えれば、この人物は敵視するということを、なんのためらいもなく打ち出すこと、それでこそ尊敬されるのである。

 

君主は恩恵を与える役は進んで引き受け、憎まれ役は、他人に請け負わせればいいということ。

 

君主は、戦いと軍事上の制度や訓練のこと意外に、いかなる目的も、いかなる関心事も持ってはいけないし、また他の職務に励んでもいけない。逆に、君主が、軍事力よりも優雅な道に心を向ける時、国を失う第一の原因は、この責務を置き去りにする事である。そして国を手に入れる根拠も、この職務に精通する事である。

 

君主の節約心によって、歳入が十分に足りて、外敵から自分を守ることができ、民衆に負担をかけずに大事業(戦争)を乗り出せる人物だと知れれば、時が経つにつれて、ますますこの君主は、おおらかだとの評判を得る。

 

恐れられるのと愛されるのと、さてどちらが良いか。誰しも、両方を兼ね備えているのが望ましいと答える。だが、二つを併せ持つのは、いたって難しい。そこで、どちらか一つを捨ててやっていくとすれば、愛されるよりも恐れられる方が、はるかに安全である。

 

人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を、容赦無く傷つけるものである。その理由は、人間はもともと邪魔なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害の絡む機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。

 

民衆が愛するのは、彼らが勝手にそうするのである。だが、恐れられるというのは、君主がわざと、そうさせたのである。従って、懸命な君主は、もともと自分の意思に基づくべきであって、他人の思惑などに依存してはならない。

 

恨みを買わないことと、恐れられることは、立派に両立しうる。

 

支援者がどんな動機から味方についたかを、よくよく考えてみる。仮に、支援を惜しまなかった人々が、新君主への自然の敬幕ではなく、ただ元の国に不満があったからという動機でそう動きたのであれば、彼らを味方にしておくのは、君主にとってとんだ骨折りと足手まといを背負いこむ。なぜなら、新君主は、到底彼らの期待に応えられないから。